下呂温泉を知る

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飛騨川の流域に湧く下呂温泉は室町時代京都五山の僧万里集九や、
徳川家康から四代の将軍に仕えた儒学者林羅山により、
兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並ぶ「日本三名泉のひとつ」と称された天下の名泉です。
温泉街は飛騨川を中心に歓楽的な賑わいと山里の風情が調和して、下呂温泉の魅力を醸し出しています。


噴泉池・足湯・外湯
下呂温泉では飛騨川沿いに湧く噴泉池をはじめ、3つの共同浴場で外湯が楽しめます。また、温泉街には無料で楽しめる足湯が点在し散策の途中でも気軽に温泉が楽しめます。
ぜひお気に入りの温泉を見つけてみてください。
湯めぐり手形
下呂の名泉を満喫するなら「湯めぐり手形」がお得です。これ1枚持っていれば、手形加盟旅館の中から三軒のお風呂に入浴することができます。手形は旅の記念やお土産にもピッタリ。下呂にお越しの際は「湯めぐり手形」をお忘れなく。
泉質
単純温泉(アルカリ性単純温泉) この滑らかさをお伝えできないのが残念です。
効能
リウマチ、運動機能障害、神経症、神経麻痺、病後回復、疲労回復など、pH9.2で天然の石鹸効果で、滑らかな肌ざわりは美容や健康づくりにも優れた効果があります。
下呂温泉分析表:湯之島・森地区 幸田地区
管理システム
下呂温泉では、良質な温泉を将来にわたって温泉資源の安定供給を目指して昭和46年に集中管理事業に着手しました。温泉資源保護の先端的な集中管理のシステムが、昭和49年から稼動しています。
システム図

下呂の温泉街から4キロほど離れたところに、湯ヶ峰という海抜1,067mの山があります。この山はおよそ10万年前に噴火した火山といわれ、下呂温泉は最初、この湯ヶ峰の頂上付近で平安時代の中頃にあたる天暦年間(947~957年)に発見されました。
下呂温泉の発見年代については、この天暦年間とする書のほかに延喜年間(901~923年)と記した書物もあります。八代将軍の飛騨代官を勤めた長谷川忠崇が、将軍吉宗の命により完成した「飛州志」には天暦年間とあり、「飛騨編年史要」には延喜年間とあります。

鎌倉時代中頃の文永2(1265)年以前のある日突然、湯ヶ峰の頂上付近で湧出していた温泉が突然出なくなり、現在源泉地といわれている場所、即ち温泉街の中央を流れる飛騨川の河原で再び発見されました。温泉の再発見にまつわる話は「白鷺伝説」として今に伝わっています。
温泉の出る場所が、海抜1,067mの山中から平地に移動し、温泉の利用が大変便利になり、名泉の評判が各地に広がっていきました。室町時代の末期延徳元(1489)年には、全国各地を紀行した京都五山の僧、万里集九も下呂温泉を訪れその名泉ぶりを讃えています。

下呂温泉が名湯であることを初めて天下に紹介したのは、室町時代の京都五山の僧、万里集九でした。その詩文集『梅花無尽蔵』には「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島(下呂)、この三か所なり」と記されています。
江戸時代には儒学者林羅山も万里集九と同様の評価をしており、『林羅山詩集第三西南行日録』には「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島(下呂)、この三か所なり」とあり、さらに「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、入湯する人はその験を得ざることなし」と続き、下呂温泉が名湯であることを伝えています。
岐阜県立下呂温泉病院では、温泉を利用したリハビリ施設があります。