観る・あそぶ

HOME観る・あそぶ > 下呂温泉

下呂温泉

[地域] 下呂 [カテゴリ] 温泉

下呂温泉

1000年の歴史をもつ下呂温泉。傷ついた一羽の白鷺が温泉のありかを知らせたという伝説があり、室町時代には高僧万理集九が江戸時代には儒学者林羅山が有馬・草津にならぶ「天下の三名泉」と紹介した。源泉温度は最高84℃、供給温度は55℃。またツルツルスベスベした肌触りから別名「美人の湯」とも呼ばれている。旅館ホテル保養所など約70軒の宿泊施設がある。(泉質:アルカリ性単純温泉 効能:リウマチ、運動機能障害、神経痛、美容効果など)


 








【日本三名泉の由来】

最も古い文献では、京都五山相国寺の詩僧 万里集九の詩文集『梅花無尽蔵』の中に「予在飛之温泉、
温泉所在日益田郡下櫓郷、」と下呂温泉に滞在し、その中で「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」と記している。万里集九は応仁文明の乱(1466-77)を避けて全国各地を旅した後、延徳元(1489)年5月と同3(1491)年に下呂温泉に入湯している。
その後、天文18(1549)年には禅昌寺を開山した明叔和尚が下呂温泉で湯治をしている。
江戸時代になると、徳川家康から4代にわたり江戸幕府に仕えた儒学者 林羅山(1583-1657)も、詩集巻第三、紀行三、有馬山温湯の中で、
「我國諸州多有温泉其最著者摂津之有間下野之草津飛騨之湯嶋是三處也」と記している。
これが、有馬、草津、下呂を三名泉とする由来である。
(「下野之草津」は「上野」と思われる)


【万里集九】

万里 集九(ばんり しゅうく、1428年10月17日(正長元年9月9日) - 没年不詳)は、室町時代の禅僧、歌人。近江国の速水氏の出自。
近江国に生まれる。京都の臨済宗東福寺永明院で僧となり、京都相国寺雲頂院で修行、大圭宗价に師事する。建仁寺や南禅寺の講席、蔭涼軒季瓊真蘂にも師事する。1467年からの応仁の乱で相国寺が焼失すると都を離れ、近江などへ移る。
地方で還俗し、1471年には美濃国に住み、斎藤妙椿とも交友。その後は尾張国、三河国へ移り、1485年には太田道灌に招かれて江戸城に滞在する。1486年に道灌が上杉定正に暗殺されると、しばらくは定正に留められるが、後に定正に追われた道灌の子太田資康を見舞っている。
著作に『静勝軒記』、漢詩文集の東国旅行記『梅花無尽蔵』(7巻、永正3年(1506年)完成と言われる)など。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E9%9B%86%E4%B9%9D" より作成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア日本語版』(
http://ja.wikipedia.org )2009年8月10日10時(日本時間)現在


【林羅山】

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。
羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。天正11年(1583年)京都において産まれるが、ほどなく伯父へ養子に出される。小さい頃から秀才としてうたわれ、文禄4年(1595年)京都建仁寺で仏教を学ぶが、僧籍に入る(出家する)のは拒否し家に戻る。
独学を進めるうちに朱子学に熱中していき慶長9年(1604年)藤原惺窩(せいか)に出会う。羅山にとって惺窩との出会いは、精神的、学問的に大きく影響を受けることになり、惺窩も羅山の英明さに驚き、翌慶長10年(1605年)には徳川家康に会わせる。惺窩の勧めもあり家康は、以後羅山を手元に置いていくことになる。羅山は家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなった。
慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。この時林羅山は地動説と地球が球体である事を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。この論争は林羅山がハビアンを論破する形で終わり、その後ハビアンは信仰に動揺を来たし、後の棄教につながっていく。
慶長12年(1607年)には、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠(家康の3男)に講書を行った。寛永元年(1624年)3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講になり、以後幕府政治にも関わっていくことになる。寛永12年(1635年)武家諸法度の起草にあたり、翌13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にもあたった。
なお寛永9年(1632年)上野忍が岡に、学問所を与えられ先聖殿と称した。これが後の昌平坂学問所になる。
羅山は、初期の幕府の土台作りに大きく関わり様々な制度、儀礼などのルールを定めていった。学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展、儒学の官学化に貢献した。博識で学問だけでなく紀行書なども著すなど多彩な面がある。
なお、大学頭(だいがくのかみ)は、3代林鳳岡(羅山の孫)の時代からであり、以後林家は代々幕府の学問の責任者を担ってゆく(駿河文庫の管理を担う)。
明暦2年(1656年)に妻を亡くした際には、その死を悼む詩を26首詠むなど愛妻家でもあった。翌年、明暦の大火によって邸宅と書庫を焼失し、その4日後に死去した。書庫が焼失した衝撃で命を縮めたという説がある。墓は東京都新宿区市谷山伏町にある。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1" より作成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org )2009年12月16日15時(日本時間)現在




 

【白鷺橋の林羅山像】

当協会では、平成4年(1992)宿泊客150万人達成を記念して、江戸時代に「下呂温泉を日本三名泉」と記した林羅山を顕彰し白鷺橋上に彫刻家の斎藤勝弘氏作の“林羅山像”を建立した。
・建立除幕式:平成4年4月25日 現林家当主の林智夫氏を招き除幕式を実施した。
※宿泊客150万人達成は昭和64年12月に達成。昭和64年・平成元年度(1989)-156万人となった。

ご利用情報

場所 下呂市
見頃/開催時期
営業時間 通年
利用料金
駐車場 市営駐車場 70台 1時間無料 1時間を越えて7〜19時/30分100円 19〜7時/60分100円
問い合わせ先 ・(一社)下呂温泉観光協会

 TEL 0576-24-1000
 FAX 0576-23-0071
 ホームページ

交通アクセス

主要道路から ◆中央自動車道/中津川ICから国道257、41号を経由して約52km ◆東海環状自動車道/富加関ICから県道58号を経由して約35km。井尻交差点を左折し国道41号を経由して約28km
公共交通機関 ◆JR/名古屋駅より高山本線で下呂駅(約1時間30分)下車、大阪駅より高山本線で下呂駅(約3時間30分)下車2
下呂駅から